History of Classical Guitar Competitions in Japan日本のクラシック・ギターコンクールの歴史
高度経済成長期(1950年代後半から1970年代初頭)のクラシック音楽の動向は、日本国内外で多様な発展を遂げています。日本は急速な経済成長とともに、文化的な多様性が増し、クラシック音楽もその一環として進化しています。
<高度経済成長期のクラシック音楽動向>
[西洋音楽の影響]: 高度経済成長期には、西洋のクラシック音楽が日本に大きな影響を与えました。
特に、ヨーロッパの作曲家たちの作品が日本で広く演奏され、学校の音楽教育でも取り入れられました。
[日本の作曲家]: この時期には、日本の作曲家たちも活躍し、独自の作品を作り出しました。
例えば、黛敏郎や武満徹などが挙げられます。彼らは西洋のクラシック音楽の技法を取り入れつつ、日本の伝統音楽と融合させた作品を作りました。
オーケストラとコンサートホールの発展: 高度経済成長期には、オーケストラやコンサートホールの数が増加し、クラシック音楽の演奏機会が増えました。
これにより、一般市民もクラシック音楽に触れる機会が増えました。
<高度経済成長期のマスメディア動向>
[テレビとラジオの普及]: 高度経済成長期には、テレビとラジオの普及が進み、クラシック音楽の演奏やコンサートの模様がテレビやラジオで放送されるようになり、より多くの人々がクラシック音楽に触れることができるようになりました。
[音楽雑誌の増加]: 音楽雑誌も増加し、クラシック音楽に関する情報や評論が広く発信されるようになり、クラシック音楽に対する関心が高まった時期です。
[レコードの普及]: レコードの普及により、クラシック音楽の録音が一般家庭にも普及しました。これにより、クラシック音楽を自宅で楽しむことができるようになりました。
クラシック音楽とマスメディアの相互作用が進んで、日本の音楽文化に大きな影響を与えたと考えられます。
クラシックギターコンクールの歴史 [1949年~1970年]
昭和時代における日本のクラシックギターコンクールの歴史は、クラシックギターの普及とともに発展していきました。
然しながら、クラシックギター団体の統一は難かしく、一枚岩とはならず「コンクールのような勝敗を競う場とは性格を異にするもの」として「新人演奏会」を開催されていたグループが存在した。
1. 初期のコンクール [*]古い雑誌で拾い出していますので「抜け」、来日演奏家の「特集」などで掲載されていない時期もございます。
1949年 第1回ギターコンクール(主催:ギタルラ社)
1949年 第1回 西日本ギターコンクール
1950年 第2回ギターコンクール(主催:現代日本ギター連盟)
1950年 第2回 西日本ギターコンクール
1951年 第3回ギターコンクール(主催:現代日本ギター連盟)
1952年 第4回ギターコンクール(主催:現代日本ギター連盟)
1953年 第5回ギターコンクール(主催:現代日本ギター連盟)
1954年
1955年
1956年 第1回ギターの友新人演奏会[春季]
1956年 第2回ギターの友新人演奏会[秋季]
1956年 第1回 九州ギターコンクール
1956年 第2回 九州ギターコンクール(ギターの友社杯)
1957年 第6回ギターコンクール(主催:現代日本ギター連盟)
1957年 第4回 西日本ギター音楽コンクール(主催:日本ギター教授者協会)
1957年 第4回 九州ギターコンクール
1958年 第7回ギターコンクール(主催:現代日本ギター連盟/中日新聞社共催)
1959年 ギターの友新人音楽賞/新人努力賞(主催:ギターの友社)
1959年 第5回 九州ギターコンクール(九州ギター音楽協会主催/日本ギター教授者協会後援)
1960年 第1回新人賞選考演奏会(主催:日本ギタリスト協会)
1960年 大阪ギターコンクール(主催:日本ギター教授者協会)
1960年 第5回 西日本ギターコンクール(主催:日本ギター音楽連盟/日本ギター教授者協会)
1965年 第8回ギターコンクール(主催:現代日本ギター連盟)
1966年 第9回ギターコンクール(主催:社団法人日本ギター連盟)
1968年 第10回ギターコンクール(主催:社団法人日本ギター連盟)
1968年 第13回 九州ギター音楽コンクール
1969年 第14回 九州ギター音楽コンクール(九州ギター音楽協会)
1969年 第11回ギターコンクール(主催:社団法人日本ギター連盟)
1970年 第12回ギターコンクール(主催:社団法人日本ギター連盟)
1970年 第15回 九州ギター音楽コンクール
1970年 第1回 九州ヤマハギターコンクール
1970年 第3回 四国ギターコンクール(四国ギター協会主催)
1970年 第1回 新人賞選考演奏会(日本ギタリスト協会)
2. ギター協会・連盟等の設立
1933年 「横浜ギター協会」設立[3月]<北澤照子>
1939年 「西日本ギター連盟」結成<理事:富田勇吉・中山覚・深川倣正>
1947年 「大阪ギター協会」設立<近藤恒夫>
1948年 「関西プレトロ協会」設立<縄田政次・近藤恒夫・中野二郎>
1950年 「現代日本ギター連盟」設立[8月26日]<小原安正>
1952年 「日本ギター芸術協会」設立<近藤恒夫>
1952年 「日本ギター教授者協会:NGKK」設立 近藤恒夫・月村嘉孝
1953年 「北関東ギター協会」支部設立(千葉)<中林淳真・西道夫>
1953年 「現代日本ギター連盟 北海道支部」の結成
1954年 「新日本ギタリスト連合」発足<永田哲夫>セゴビアーナ・デ・ギタラ
[北沢俊明・亀井多可志・京本輔矩・玖島隆明・奥田紘正・小原二郎・]
1956年 「日本ギター演奏家協会」発足
1959年 「東京ギター・アカデミー」設立<校長:小船幸次郎>
担当教授:阿部保夫・飯坂虎次郎・奥田紘正・亀山寿天子
京本輔矩・小船照子・寿楽光雄・寸山静江・永田哲夫・横尾幸弘
1966年 「現代日本ギター連盟」法人化し、「(社)日本ギター連盟」と改称
1967年 「中部日本ギター協会」発足[1月15日]<会長:中野二郎>副会長:伊藤尚夫・田村敏夫
1967年 「広島ギターアカデミー」設立:檀上宣順・楠原省二・祝い祥訓・北林康彦・浜村襄一
1969年 「日本ギタリスト協会」設立[7月31日]<阿部保夫>
現代日本ギター連盟の発足について:現ギ連宣伝部
ギタルラ1951-10-No.11.pdf/P.18
現代日本ギター連盟の報告 : ギタルラ 1951年
『現代の日本ギター連盟(以下、現ギ連と略記する)が発足したのは昨年すなわち昭和25年の8月末である。
然し本部で発足を決定したのほ確か6月か7月始めであったと思う。
全国的な一致と言う原則を守る為に関東、関西の2大圏が先ず歩調を揃えねばならぬと考えて関西側に早くから申入れをして回答を待っていたが、何故か夏の間、何の返答もなく握りつぶしとなって居り、その間、故上田耕司氏の懸命な奔走が有ったに関わらず、そのままとなって現在に至った。
昨秋、第2回西日本コンクールの当日、私は西下し、月村、縄田氏に会い参加を重ねて申し入れた。
そしてその当時.教授者協会の拡大を計画中であったので、小生にも協力を申入れられたので快諾し、小生は協会の客員として迎えられた。
現ギ連ほ、如何なるグループとも対立しないと言う項目を設けているので、関西側の教授者協会には其後何のわだかまりも持たずに参加した。
然し、今年春に至り縄田政次氏の東京レサイタル直前に氏から加盟の申出があったので喜んで入って頂いた。
此度、九州地方部の団結が出来、之にならつて各地に現ギ連の支部結成の機運が起つて来ている。
元来が同志的結合を基本的な線として打出しているのだから、反対の考え方を抱いている人までを無理に吸収して、形だけを整え、その為に運動に支障を来すような事は避けている。
丁度美術の団体に無数のグループが有る如くである。
今までのギター界の大同団結とは保守と急進も全く一線に並べて、全ギタリストを打つて一丸としなくては気が済まないように見受けられ、そしてそれが必ず失敗していたのである。
現在の現ギ連には当方の申入れが礼を尽くして為されているにかかわらず、参加して下さらない大家が沢山ある。
此の方逹は現ギ連に反対の立場を固守されているようであるが、それは一向差し支えのない事で、御当人の自由である。
私は現在を信ずる事が出来ない。
何故なら現在と言うものは此の瞬間から既に過去である。
此の過去だけを守つて未来を考えようとしない人生観をどうしても持てないのである。
現在の我々は矢のような速さを以て過ぎ去りつつある。
之から新しいギターの普及を創造してゆく若いギタリストや、又絶えず成長して止まないと言う感覚と欲求を持つ進歩的なギタリストでない限り、瞬く間に置いてけぼりを食らうことは当然なのだ。
現ギ連はいつも若さが充渦している。そして精力的に、力強く進もうと欲している。
現ギ連は8月末を以て旧役員の任期満了となり、新たに若い活動的な委員を大量に加えた。
そLて部署を決めて強力に動くようになった矢先、九州地方部の発足を見て画期的な共同体を作り得た。
新しい人事の顔ぶれは別項の如くである。
カビで真っ白になったような、そして動脈硬化で益々退歩してゆくようなギターでなく、いつも清新で、グイグイと進歩してゆく意欲的なものであって欲しい。
絶えず創造と前進が行われねばならない。
現ギ連は此の希望に胸をふくらませて巨歩を進める。
各地のギタリストの参加と支部結成を心から期待する。
-現ギ連宣伝部-
ギタルラ1951-10-No.11.pdf/P.18
新人発表演奏会について:ギターの友社
digitalguitararchive/1955-04-ギターの友.pdf/P.27
それぞれの教授所に於て、年一回乃至二回の定期発表会を持たれている所はかなり沢山あり、研究生諸氏にとっていろいろな意味でよい勉強になっています。
しかし、それぞれに同門の人達の縦のつながりはあっても、他の先生の門下の人達とは殆ど交りを持つことが無く、音楽上の交流も勿論ないということは、同じギターという楽器を通して音楽の勉強に励む若ぃ人達にとって、決して好ましい状態ではないと思います。
又、相当な域にまで上達した人達にとっては、年一回か二回の発表会だけでは発表の機会が少なすぎ、さりとて独立して会を持つまでの力も無く、更に独学者にとっては、自分の勉強を発表し、批判を受ける機会はごく少ないのです。
しかもこの人達の中にこそ明日の本日のギター音楽を背負って立つべき有能な新人が見出されるものと思います。
この様な意味に於て、これら相当の浪奏力を持つ若い研究者が集って、勉強の成果を発表し合い。お互の親睦を計り良い寇味での競演を行って批判を受けることは、大いに慈義のあることと思いますので、今度ギターの友社主催の下に、新人発表演奏会を計画致しました。
要領は左記の通りです。
どうぞこの又とない機会を逃さずに、平常の勉強を発表し、明日への糧として下さい。
日・時 昭和31年3月20日 夜6時
会場東京・丸の内ホール
曲目 自由(ジャズ・フラメンコ軽音楽の類を除く)
申込期日 昭和31年1月31日まで
其の他参加者には記念品を差上げます
参加者は左記各項を記入して返信用郵券10円同封、ギターの友社宛申込んで下さい。
日本ギタリスト協会(仮称) 設立準備完成
11-ギター日本.pdf/P.35
1969年 日本ギタリスト協会(仮称) 設立準備完成
阿部保夫,京本輔矩両氏が世話人となり設立準備を急いでいた日本ギタリスト協会(仮称)が近日発足のはこびとなった。
設立後全日本に呼びかけ強大な協会として発展が期待されている。
[設立趣意]
わが国のギター界は日を追って隆盛となり,演奏技術は国際的水準をしのぐ迄になっておりますが,ギター界に対する社会的認識はまだまだ低調であることを残念ながら認めざるを得ません。
この原因を探究してみますと,これまでギタリスト相互に専門家意識が弱かったため真の結束が得られなかったことに起因していると思われます。
今日,わが国のギター界では最早アマチュア的ギタリストの存在は許されなくなり,演奏活動にしてもより高度な専門家としての演奏が望まれております。
われわれはこの現実を冷静に認識してギター界が真に向上することを希い,それに役立つことに直ちに取組みたいと思い次のことを企画致しました。
1. 会員相互の研究向上をはかり対外的地位の高揚を強く推進する。
2. すぐれたギタリストによる演奏会,講習会の全国的交流をはかる。
3. 海外との稜極的交流及びギタリスト招へいについて意見具申・調整をする。
4. 新鋭ギタリストの招介及び新人のための登竜門をつくる。
5. 会員相互の利益保護と親睦を計る。
われわれは,この企画実現に最大の努力を払うことを約束し,この成果は必ずやギタリスト相互の福祉の増大に大いに益することを信ずるものであります。
この趣意に賛同される方の入会を是非おすすめする次第であります。
昭和44 年5 月
[発起人]
阿部保夫・安達右一・奥田紘正・小原二郎・亀山寿天子・
京本輔矩・玖島隆明・国藤和枝・寸山静江・寿楽光雄・横尾幸弘
[顧問]
伊藤翁介・飯坂虎次郎・小倉俊・小船幸次郎・小船照子・
酒井富士夫・佐々木政夫・高橋功・永田哲夫(氏名 五十音順)
※この協会の発足により過去16年間つづいた新日本ギタリスト連合は発展解消することに決定した。
ギターコンクール
第1回ギターコンクール[1949年5月10日]
[開催日]:1949年[昭和24年]5月10日 午後5時
[場所]:東京都有楽町 毎日ホール
[入賞者]:第1位:阿部保夫、第2位:人見 徹、第3位:多木 宣、次席:大沢一仁
[審査員]:堀内敬三、小倉俊、武井守成、山根銀二
[主催]:現代日本ギター連盟、ギタルラ社
第2回ギターコンクール[1950年11月26日]
1950年[昭和25年]11月26日(日)午後6時
場所:神田駿河台文化学院講堂
[予選通過者]:高嶺巌・小原さき・谷口吉弘・大沢絆・伊藤睦・中里一・小原二郎・人見徹 [8名]
[入賞者]:第1位:人見 徹、第2位:大沢一仁、第3位:小原さき、次席:小原二郎
[審査員]:須磨弥吉郎(現代日本ギター連盟会長)、大田黒元雄(審査員代表)、松谷五郎、小原安正
[主催]:現代日本ギター連盟、ギタルラ社
[後援]:スペイン外交使節団、日西文化協会、毎日新聞社
武井守成氏が逝去された年,[現代日本ギター連盟]の成立
第3回ギターコンクール[1951年12月9日]
1951年[昭和26年]12月9日(日)午後6時
場所:Y.W.C.A.講堂(明大前)
課題曲:ムーア風舞曲(タルレガ作)
入賞者:第1位:京本輔矩、第2位:蜷川裕次、第3位:中里 一、次席:伊藤 武
審査員:大田黒元雄、園部三郎、松本太郎、小船幸次郎、斎藤太計雄、溝淵浩五郎、永田哲夫、小船照子、小原安正
主催:現代日本ギター連盟、ギタルラ社、東京中日新聞
後援:スペイン大使館、日西文化協会、
[私の頁] 昨年のギターコンクール(第五回ギターコンクール):松本太郎[音楽評論家]
日本ギター連盟とギタルラ社の主催に依るギターコンクールも昨年には第五回目を迎えた。
毎回のコンクールには何時もその時々の相、若しくは特徴と言つたものが見出されて非常に興味が深かつたが、第五回にもそういう事が発見された。
その特徴は我々審査員、少く共私には力強い感じと未来に対する希望を抱かせた。
はっきりは記憶していないが第一回、第二回のコンクールには応募名が多く、予選を行つてふるいをかけねばならなかつた。
ところが第三回目からは応募者が少くなつて予選の必要がなくなった。この応募者の多かつた場合と、少くなつてからの場合とを比較すると、多かつた場合には上下の実力の相違が大きかつた。
それに反し少かつた時はその相違の幅が縮められた。これは注目すべき事だつた。
回を経るに従つて参加者が自分の実力を知つて、その実力に省顧て参加を決心したり、断念したりしたと言う事が主な原因、少く共大きな原因であると考えられるからである。
世の中には自己の実力を過大視する人が少くない。
そう云う人は一,二回コンクールに出て見れば自分の実力がどの位のものであるがを認識する筈である。
そうして本当に実力に自信がつく迄は参加控えるに違いない。若しそうでなくて入選しなかつた為に審査会に反感を持つて今後参加しないと云う様な事があれば可笑しな事になる。
私はそういう事のなかった事を祈る。
もう一つ実力はあっても人の前で奏く時にひどく上つて充分実力を発揮し得ない人のあった事も考えられる。
そう云う人があつたとすれば誠に御気の毒な事ではあるが万止むを得ない。コンクールでは実際に発揮された実力に基づいて審査するより他はないから。
それは兎に角として第三回以後は応募者が減ると同時に上下の差が少くなった。と云つても第三回、第四回は入賞者に優秀な人が居た為上下の差ははつきりして居り、その相異の幅は相当大きかつた。
所が第五回に於てはその幅が著しく狭くなった。
これが第五回コンクールの大きな特徴だつたと私には思われた。
審査員の何人かも私のこの見解に同感せられた。
所でその差が如何縮まつたかと云うと、上が下り、下が上つたのだつた。
余りはつきり云つて入賞者諸君には失礼である事は分つて居るが、卒直に云うと今回の入賞者のレヴエルは第三回、第四回の時のそれに比ぺるとやや低い様に思われる。
之に反し入賞しなかつた参加者の実力は水準が高まつて居るのを感じないでは居られなかつた。
そこでこの事実を如何に見るべきだろうか。
入賞者の水準低下を残念に思う可きだろうか。入賞しない人々の水準の向上を喜ぶ可きだろうか。私は断然後者の態度を取り度い。
一国全演奏界の中で一部分の演奏者丈が俊秀で大部分が低いと云う事は全般的に見て必ずしも喜ぷ可きではないと私は考える。
発達の途上にある我国ギター界に於ては一番大事な事は全体の水準の向上であると私は何時も考える。
一部分の人が優秀であれば他の人々がこれに追附こうとして努力する事になるのは勿論あり得可き事であり、又意義のある事でもある。
けれ共全体の水準が低い時はそれは容易に実現出来ないに違いない。
全体の水準が上がれば優秀者に追附く可能性も多くなると考えていいと私は思う。のみならず、甚だ失礼な申分であるかも知れないが、我国の優秀なギタリストの実力と云つても世界的に見て非常に高い水準に達して居るとは云い難い。
そうであつて見れば一般の水準を高めて徐々として、同時に堅実に、確実に高められた水準をしつかりした足場としてそこから本当に実力ある、立派な演奏の生れ出るのを期待するのが手堅い進歩の途を固める所以であると思われる。
屡々(しばすば)そう考えて居る私に取っては第五回コンクールに見出された特徴は日本ギター界の水準の向上の一つのきざしと考えられて非常に愉快であり、日本ギター界の前途に対して明るい希望を抱く喜びを私は持つたのだつた。
然しこの水準の向上の証左はこのコンクール丈けに現われて居るものではない。
私の側聞する所ではコンクールに関係のない人々の間に於ける不断の努力の中にもそれに役立つものが見出される様である。
即ちコンクールの与える刺激とコンクールの外にある動きとの二つが平行して水準の向上に役立つて居る形勢が歓取せられるのである。
この両者の力が相待つて日本のギター界の進歩の推進力を勤めて居るのを知る事は甚だ愉快な事である。2、3年前私は「ギタルラ」誌上で思い切つた直言をギター界に呈した。
その頃私は日本のギター界にはすつかり悲歓して居た。同じ頃小原安正氏はある演奏会で日本ギター界の黄金時代がこれから来るかの様に云はれたが、私の考えは全く反対だつた。
アマチュリズムの横溢(おういつ:水がみなぎりあふれること)、地理的、人間的セクショナリズムの存在、自己批判の不足の為に日本のギター界は何時迄経つても低い水準で足踏みをしそうな気がした。
私は不安でたまらなかつた。その為私はあからさまに私の感じた所を述ぺて苦言を呈したのだつた。
然し今日に至つて見るとそれが杞憂であるらしい事が分つて米た。(必ずしも全部が杞憂とは云えないが)それは私の考え過ぎであつて右の欠点が少し宛ながら除かれたらしく、水準向上の証左が現われて来た事は誠に以て喜ばしい挙である。私は上に「コンクールに関係のない人々」と云つた。
そしてそれらの人々の努力に就いても触れて見た。それ等の人々の努力は私が認める丈けではなく総ての人に依つて認める可きである。
然し願わしい事はそれ等の人々がコンクールを閑却しないでそれに協力、参加せられる挙である。
個々のグループが別々に努力する事に依つて全体の進歩の為に為し得る事を私は否定しない。
けれ共全体が気脈を通じ、心を一つにして助け合い、刺激し合う事の方が一層大きい結果を齋す(もたらす)だろう事は誰も疑わないだろう。実力のある人々が技を競う場合、参加者の範囲が広ければ広い丈けコンクールはいい 結果を生み出すに違いない。
私はもつと広い範囲の人々、もつと多くのグループの人々が参加するのを祈らざるを得なぃ。
コンクール主催者は勿論、審査員一同も日本ギター界の水準の高まるのを目的としてその任に当つて居る。
その為に審査員一同は極力審査の公平の為に意を用いて居る。
審査貝の中でもギター演奏家は比較的テクニックの方に、評論家の方は比較的音楽性の方に注意を払つて居る。
従つて仮に一方でテクニック丈けに重点を確く様な事があつても、一方でその音楽性を尊重する為に奏演の全体的値価、ギター音楽の内的、外的値価が一方に偏する様な評価を与えられる様な事は起り得ない。
私は審査会は信頼されていいと信じる。従って出来る限り広い範囲のギタリストが審査会を信頼してコンクールに参加せられる事を祈り度い。
小異は常に存在する。あらゆる場合人問のあらゆる染りには意見や見解の小異の起るのは免れ難い。
然しそれが故に弧立が生じるのは願わしくない。グループ的孤立は全体の進歩の為に役立たないのみならず時には進歩を阻止し若くは遅延させる場合が少くない。
何と云つても日本のギター界の水準は高いとは云い難い。その進歩、発展の為には極力それを阻止し、遅延させる要素を取除かねばならない。
その為には小異を捨てて大同を取る事が極めて緊要である。種々のグループの存在は決して否定す可きものではない。否定す可きはその存在が弧立的である事である。
グループとして存在しつつ一方で協力する事が必要である。それが大同を取る所以である。
この事はギターコンクールに就いて考えられると同時にギター作曲コンクールに就いても考えられる。咋年の第一回ギター作曲コンクールには作品の応募も少<、作曲の水準も余り高くなかつた。
それには第一回だった為と云う事もあり、演奏とは違った作曲コンクールである為の特殊の事情や原因があつたかも知れない。
然し若し邦人にギター作曲の意思とその実現があり、実際作曲が為されて居たとするならば、もつと積極的な協力があつて然る可きであったと思う。
少く共第二回には一層の協力が望ましい。
1954-01-01-Armonia P.15-P.17
第6回ギターコンクール[1957年7月28日]
1957年[昭和32年]1957年7月28日
場所:千代田公会堂
入賞者:第1位:斎藤 勇、第2位:中林淳真、第3位:宇田川禎一、次点:河合利満
審査員:井上頼豊、小原安正、小船幸次郎、月村嘉孝、中野二郎、山根銀二、吉田貴寿
主催:日本ギター連盟
後援:スペイン大使館、日西文化協会、ギタルラ社、中日新聞社
第7回ギターコンクール[1958年6月8日]
1958年[昭和33年]6月8日(日)午後6時半
場所:Y.W.C.A.ホール(神田駿河台)
入賞者:第1位:中林淳真、第2位:山口良昭、第3位:宇田川禎一、次席:森本寿恵春
審査員:井上頼豊、小原安正、小船幸次郎(欠席)、月村嘉孝、中野二郎、山根銀二(欠席)、ヘスス・ゴンザレス
主催:現代日本ギター連盟、ギタルラ社
後援:スペイン大使館、ギタルラ社
西日本ギターコンクール
>第1回西日本ギターコンクール[1949年11月20日(日)]
開催日時:1949年11月20日(日) 9時30分~予選開始
場所:桜ノ宮公会堂
入賞者:第1位:田村満(高知市)、第2位:亀井一夫(岡山県津山市)、第3位:松井徳次(大阪市)、第4位:宮崎輝世(大阪市)、第5位:原久男(神戸市)
審査員:吉村一夫、月村嘉孝、中野二郎、長井斉
来賓挨拶:縄田政次
[*写真説明] (敬称略)
[前列右より] 縄田政次、月村嘉孝、中野二郎、宮跡輝世、亀井和男、田村満、松井徳二、原久雄、長井斉、吉村一夫、佐々政夫
[中列同] 三好康訷、田村敏雄、丹村茂、亀井孝志、堀川久雄、河合利男、白井幸男、池田幸哉、西林徳、瀧岡敏郎、上田眞梨子、富本一夫、古谷要三、田中幾大
[後列同] 上田耕司、横野實、横野貫治、横山伝一郎、島重信、西原正雄、近藤恒夫、大橋済、中村敬三、豊島文雄、鳥居諒二郎
[*] Robert Coldwell:digitaruguitararchive/ギタルラ/1950-11-No.9.pdf/P.35より
第2回西日本ギター音楽コンクール[1950年12月2日(土)]
予選 午前10時 本選 午後2時 於:松坂屋7階ホール
[参加者]:羽田昭治・竹島寿雄・中村省三・藤岡文雄・大橋佐枝・小橋康子・山本和雄・池田幸哉・木村史郎・白井幸男
古本義輝・古川惣・黒島邦一・松田二郎・鎌田芳明・川西勇・北田幸男・原久男・宮崎輝世・大石六郎・小山利夫・宮本一夫
古谷要三・戸田実・森本英・井上和雄・谷口吉弘・石浦潤一・蜷川裕次・中村輝男
[主催]:関西スペインギター音楽同好会
[後援]:現代日本ギター連盟・関西ギター教授者協会・関西プレットロ協会
[第1位]:白井幸男(大阪) 独創的幻想曲 ビニアス
[第2位]:蜷川裕次(愛知) 主題と変奏 ソル
[第3位]:小山利夫(岡山) ソナタ・チマローザ・プラト
[次点]:古川惣(大阪) スペイン小夜曲 マラッツ
[審査員]:島重信・月村嘉孝・中野二郎・長井斉・吉村一夫
第4回西日本ギター音楽コンクール[1957年5月19日(日)]
開催日時:1957年5月19日(日) 9時30分~予選開始
:1957年5月26日(日) 夕陽丘会館
[主催]:日本ギター教授者協会
予選場所:大阪府立労働会館 予選 9時 本選1時半
本選 :夕陽丘会館
[第1位]:武井達也(大阪)
[第2位]:岡本一郎(兵庫)
[第3位]:貞本国則(岡山)
[次点]:茂山政次郎(大阪)
[次点]:西牟田博(熊本)
審査員:吉村一夫、月村嘉孝、中野二郎、長井斉、藤田光彦
各種イベントコンサート
タルレガ生誕百年記念演奏会 [1953年5月11日]
『世界各国のタルレガ祭に加え先づ東京に於ては、5月11日6時よりYWCAホールで行われた。当夜は定刻6時に、現代日本ギター連盟会長、日西文化協会理事の須磨弥吉郎氏の有意義なあいさつによって会が始められ、ついで現スペイン代理大使パレン・チヤーナ閣下、自ら段上に登り、タルレガの芸術を偲び此の歴史的会を祝うメッセージを読まれ小原安正氏によって通訳された。ついで永田哲夫氏のタルレガ遺作エンデチャー・オレムスによって演奏が開始され、次々と東京在住のギタリストによってタルレガの作品400余を言われている中の10数曲と編曲作品数曲が演奏され、人間味あふれるタルレガ像を中心に会場一杯の感激深い会は、現代日本ギター連盟副会長、小船幸次郎氏のことばによって結ばれた。』
永田哲夫:エンデチャー・オレムス/タルレガ讃歌(作曲研究会作)
奥田紘正:マズルカ(夢)/アラビア風狂詩曲/グラナダ(アルベニス)
亀山寿天子:パバーナ/タンゴ/ゆりかご/カディス(アルベニス)
小原安正:前奏曲5曲(3,5,6,1,11)/二つのマズルカ/セビリア(アルベニス)
小船照子:アデリータ/ラ・グリマ/ロシタ/セレナーデ(マラッツ)
溝淵浩五郎:アルポラーダ/アルアンプラの想出/グラン・ホタ
[*転載]Robert Coldwel WEB Site/digitaruguitararchive/ギタルラ/1953-10-No.13.pdf[P.19]
ギターの友新人演奏会
第1回ギターの友新人演奏会 1956年3月20日
第1回ギターの友新人演奏会 1956年3月20日 午後6時半開演
場所:東京丸の内ホール(東京駅降東口前。新丸ビル地階)
[主催]:ギターの友社
[後援]:セゴビアーナ・デ・ギターラ
山内孝(東京)昭和6年6月29日生[小原二郎門下]、白井愛子(東京)昭和6年4月18日生[奥田紘正門下]、柴田勝弘(東京)昭和5年7月14日生[大沼幹彦門下]、河合敏満(豊橋)昭和4年12月21日生[独学]、百海啓介(東京)昭和11年10月8日生[奥田紘正門下]、久野義光(名古屋)昭和11年7月9日生[蜷川裕次門下]、
寺田清彦(東京)昭和6年1月1日生[玖島隆明門下]、松田二郎(神戸)昭和8年6月28日生[溝淵浩五郎・月村嘉孝に師事する]、斎藤和義(東京)昭和7年2月10日生[平野雅俊門下]、田村顕雄(千葉県船橋)昭和10年6月1日生[大沢絆門下]、周 文雄(東京)昭和8年3月8日生[大沼幹彦門下]、大西皓夫(千葉)昭和8年9月1日生、
武井達也(大阪府)昭和10年5月13日生[近藤敏明門下]
主催 ギターの友社
後援 セゴビアーナ・デ・ギターラ
第2回ギターの友新人演奏会 1956年9月17日
第2回ギターの友新人演奏会 1956年9月17日 午後6時開演
場所:東京丸の内ホール(東京駅降東口前 新丸ビル地階)
「ギターの友」ニューイヤーコンサート 1957年1 月14 日
1957年1 月14 日 ニューイヤー・コンサー卜
[日時]:1957年1 月14 日 午後6 時開演
[場所]:丸の内ホール(東京駅前新丸ビル)
[主宰]:ギターの友社
[出演者](順不同)
<上段>:三木理雄・高村正夫・大沢良雄・戸田昇・金子千啓・安西一陽・玖島たづ子・
<中段>:京本輔矩・「」・「飯塚虎次郎・大沢絆・奥田紘正・小原二郎・人見徹・阿部保夫・玖島隆明・
<下段>:「」寸山静江・亀山寿天子・小船照子・「」「」小船幸次郎・溝淵浩五郎・白井愛子・山内孝
勝俣正治・・平野雅俊・新ケ江幸男・浅尾成
1957-18-ギターの友 P.25
「ギターの友」春期演奏会 1957年3月18日(月)
日時:1957年3月18日(月) 午後6時半 開演
会場:東京丸の内ホール(東京駅前・新丸ビル地階)
出演者指名:西牟田 博(西野博門下)、高橋利通(独学)、斎藤和義(平野雅敏門下)、勝俣正治(玖島隆明門下)、岡田貫伍(寸山静江門下)、石月一匡(溝淵浩五郎門下)、西條通孝(近藤敏明門下)、斎藤忠雄(阿部慶司に師事)、山内 孝(小原二郎門下)、松田二郎(溝淵浩五郎、月村嘉孝、藤田光彦に師事)、百海啓介(奥田紘正門下)、柴田勝弘(大沼幹彦門下)、上田一路(小原安正に師事、現在京本輔矩門下)、河合敏満(蜷川裕次門下)
1957-20-ギターの友 P.28
全国主要ギター教授所案内
「ギターの友」秋期演奏会 1957年
ギターの友社
新人音楽賞 勝俣正治、松田二郎
新人努力賞 山内 孝
「ギターの友」ニューイヤーコンサート 1958 年1 月13 日・20 日
1958 年1 月13 日・20 日 ニューイヤー・コンサー卜
日時・1958 年1 月13 日・20 日午後6 時半開演
場所・丸の内ホール(東京駅前新丸ピル地階)
溝淵浩五郎、横尾幸弘、寸山静江、阿部保夫、小船照子、人見徹、玖島隆明、京本輔矩、永田哲夫、飯坂虎次郎、大沼幹彦、奥田紘正、大沢絆、亀井和夫、亀井多可志、ほか
東京・ギター・アカデミー開校 1959年4月19日
1959年
日時・1959年4月19日
場所・神田YMCA同盟会館
今年度春期の入学生は45人
[本科1学年入学者]:
川淵隆弘(17歳)山本秀子、大西博愛(22歳)高木孝(23歳)新堀寛己(24歳)田中和彦(30歳)原田七郎(20歳)北島諒吉(19歳)今泉沌(26歳)井上欣也(22歳)市村員年(24歳)北村義―.(25歳)関口充子谷脇武司(20歳)久松黎子、深谷英雄(24歳)村山喬明(28歳)河添清夫(21歳)川端林子、吉川登品20歳)木村範夫(18歳)小津邦夫(25歳)村井正二郎(24歳)小野源文広(21歳)高野ャ=、堀田朗子、鈴木富雄(26歳)、大能貞幸(20歳)、星仲元(20歳)、保坂新次郎(5歳)、山元強(27歳)、渡辺欣哉(27歳)、宇野孝彦(21歳)
[実技のみの入学者]
飯田裕三(10歳)
井淳(20歳)
真鍋理恵子、岡
[本科第二学年入学者]
植田一路(27歳)
[聴講学生]
小泉清(24歳)塚原正凡(25歳)進藤静子、中井弘幸(24歳)安藤千鶴子
[一般聴講生]
兵藤静枝、和井田湛彦(16歳)
[遠隔入学]
早坂洋 遠隔入学(27歳)北海道
尚、楽理とス。ヘイン語の授業は四月二十三日から始まり、特別講座として咋年ドイツで開かれた、「国際ギタリスト会議」に出席して二月に帰国された高娯巌教授の体験談が発表された。
第1回九州ギターコンクール
10月16日 教育会館(福岡市)
審査員:岩崎正和、湯崎敬二、橋口慶二、西野博、今井政久、岡田順介
1956-04-ギターの友 P.5
第2回九州ギターコンクール-ギターの友社杯
1956 年
日時・1956年開演
場所・
第3回九州ギターコンクール
1957年
日時・1957年開演
場所・
第4回九州ギターコンクール
?月?日 ?(??市)
第1位:藤井利生
第2位:恵良賢次(西条通孝門下)
第3位:村上岳男(西野博門下)
次点:今井悦太(坂本八千代門下)
審査員:????
1957-27-ギターの友 P.48